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宇野千代の人生と文学
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■ 永訣のとき
宇野千代は平成8年(1996)6月10日午後4時15分、急性肺炎のため東京都港区の虎ノ門病院で「駆け出しお千代」98年の生涯を閉じた。彼女の生きざまや心ばえを愛し、その文学に浸った全国の人々に別れを告げて彼岸に旅立ったのである。
4月20日から5月26日にかけての「宇野千代の世界展」が山梨県立文学館で開催されていたのだが、愉しみにしていた参観は叶わなかった。
翌11日の新聞各紙は「宇野千代さん死去」とその一面や社会面・コラム欄等で異例とも思えるスペースを割いて哀悼した。
通夜・密葬が6月14日、15日に東京品川の「桐ケ谷斎場」で行われたあと、29日に港区の「青山葬儀所」で開かれた《お別れの会》には1300人が弔問に訪れた。
名誉市民宇野千代を送る岩国市葬は8月9日、岩国市民会館大ホールで執行され、900人の人々が霊前に白菊を奉献した。防長新聞(平8・8・10)はこの日の模様を大要次のように報じている。
祭壇中央には白菊の花に囲まれた宇野さんの遺影。周囲に宇野さんが生前こよなく愛した桜と錦帯橋を配し、舞台左右には、東京の「お別れの会」の式場で飾られた高さ四bの枝垂れ桜が二本飾られた。桜のそばには、宇野さんが88歳の米寿の祝賀会で着用した黒地に桜の花びらの大振袖(根尾村の桜館展示品)を配置・・・式典では、まず存りし日の宇野さんの映像を約十分間上映。来賓・主催者が登壇の後、喪主の藤江淳子さんに抱かれた遺骨が入場した・・・ライトアップされた枝垂れ桜の枝は空調の風で静かに揺らぎ、天井から桜の花びらがはらはらと舞うという演出の中、式は静かに進行。「私は幸福の種をまく花咲かばあさんになりたい」という宇野さんの元気な声が流れると、壇上の藤江さんら遺族をはじめ、場内でも涙をぬぐう姿が見られた。生前の宇野さんが大好きだったという明治時代の小学唱歌「桜井の別れ」が流れる中、貴舩悦光葬儀委員長以下壇上の30人が次々と白菊を献花。親族を代表して藤江さんは「先生の遺骨は川西の教蓮寺に埋葬します。ふるさとがこんなに近くなって、先生はどんなに喜んでおられるでしょう・・・」とあいさつした。式典終了後の午後2時過ぎ、遺族と貴舩市長(当時)ら市関係者、宇野千代後援会会員ら約100人は、宇野さんの遺骨・遺影とともに宇野さんの生前愛した錦帯橋を渡った。
桜も日本一、錦帯橋も日本一、こんな日本一の故郷を持っているような幸せ者が、この日本にまた二人とあるだろうかと思って、私はとても故郷に感謝しているのである(『私の幸福論』平5・5 海竜社)──と言う千代にとって、桜吹雪といい、錦帯橋渡橋といい、何よりの葬送であったに違いない。7月9日付で正四位勲二等瑞宝章が追贈された。
《謙恕院釋尼千瑛》は今、川西の生家を指呼の間に望む宇野家菩提寺「呑海山教蓮寺」の墓所に淡墨の桜に寄り添われ、安らかに眠る。
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