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宇野千代のこと
■ 宇野千代年譜

宇野千代の人生と文学





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宇野千代年譜




0歳
明治30年 (1897)
11月28日、山口県玖珂郡横山村 (現岩国市川西町)に宇野俊次、トモの長女として生まれる。
2歳
明治32年 (1899)
肺結核のためトモ死去、翌年5月、父俊次は佐伯リュウと再婚。
13歳
明治43年 (1910)
3月、岩国尋常小学校を卒業し、岩国高等女学校に入学。
14歳
明治44年 (1911)
伯母から実母トモの存在を知らされる。父の命により従兄弟の藤村亮一のもとに嫁入りするが10日で戻る。
16歳
大正2年 (1913)
父俊次が病没。文学に興味を待ち始め、変名で「女子文壇」などの雑誌に投稿。文学サークルを始める。
17歳
大正3年 (1914)
女学校を卒業、川下村小学校の代用教員となる。
18歳
大正4年 (1915)
同人誌「海鳥」を発行するが3号で廃刊。同僚との恋愛を理由に教職を追われ、韓国ソウル、当時の京城に渡る。
19歳
大正5年 (1916)
京城から帰国。従兄弟の藤村忠(亮一の弟)を頼って京都へ。同棲生活を始める。
20歳
大正6年 (1917)
東京帝国大学に入学した忠とともに上京。本郷湯島天神裏、ついで小石川駕籠町の髪結いの二階に下宿。雑誌社の事務、家庭教師などの職を転々とする。数日間勤めたレストラン燕楽軒で多くの作家の知遇を得る。
22歳
大正8年 (1919)
藤村忠と結婚。翌年、忠が北海道拓殖銀行に就職したのを機に札幌へ移住。
24歳
大正10年 (1921)
「時事新報」の懸賞短篇小説に応募した処女作「脂粉の顔」が1等に当選し、賞金200円を得る。2等は尾崎士郎、選外佳作は横光利一。ついで「墓を発く」を執筆し、中央公論社の滝田樗陰に送る。
25歳
大正11年 (1922)
先の原稿の採否を案じて札幌より上京。同年5月の「中央公論」に発表された「墓を発く」の原稿料366円を受け取り、岩国へ帰郷。再び上京し、尾崎士郎と出会う。尾崎が止宿していた菊富士ホテルに移住。
26歳
大正12年 (1923)
荏原郡馬込町に土地を購入し、家を建てる。短篇集『脂粉の顔』を改造社から処女出版。
17歳
大正3年 (1914)

27歳
大正13年 (1924)
藤村忠との協議離婚が成立、尾崎士郎と結婚。「中央公論」に「或る女の生活」を発表するなど、作家としての地位を固める。作品集『幸福』を金星堂から刊行。
29歳
昭和元年 (1926)
3月から半年間、尾崎とともに山口県新港に滞在。馬込で広津和郎に麻雀を教わる。
30歳
昭和2年 (1927)
川端康成に誘われ伊豆湯ケ島に初逗留。梶井基次郎、三好達治、藤沢恒夫らと知り合う。
32歳
昭和4年 (1929)
流行に敏感な千代に続いて萩原朔太郎夫人、川端康成夫人も断髪にし周囲の目をひく。名作短篇集『新選宇野千代集』を改造社から刊行。
33歳
昭和5年 (1930)
情死未遂事件を起こし評判となった東郷青児と取材を通して会い、同棲を始める。世田谷町山崎に転居。『罌粟はなぜ紅い』を中央公論社から刊行。
34歳
昭和6年 (1931)
世田谷の淡島にアトリエつきの家を新築。東郷青児の装幀、插画による豪華限定本『大人の絵本』を白水社から刊行。
35歳
昭和7年 (1932)
親友の三宅やす子、梶井基次郎が相次いで死亡。
37歳
昭和9年 (1934)
四谷大番町の借家を仕事場とする。東郷が情死未遂事件を起こした女性とよりを戻し完全別居。同年東郷はその女性と結婚。「文学的自叙伝」を「新潮」に発表。
38歳
昭和10年 (1935)
東郷青児の話を聞き書きした『色ざんげ』を中央公論社から刊行。千代の代表作の一つとなる。
39歳
昭和11年 (1936)
スタイル社を設立し、雑誌「スタイル」を発行。日本初のファッション専門誌として人気を博す。『別れも愉し』を第一書房から刊行。
40歳
昭和12年 (1937)
「スタイル」の編集に参画し誌面を一新した北原武夫と急接近。渋谷区千駄ケ谷に転居する。
41歳
昭和13年 (1938)
スタイル社から、三好達治編集による文芸誌「文體」を創刊。北原は小説『妻』を発表し注目を浴びる。
42歳
昭和14年 (1939)
4月1日に北原と結婚。帝国ホテルで披露宴を行い、小石川に新居を構える。
44歳
昭和16年 (1941)
北原とともに満州・中国へ旅行。弟光雄が病死。文體社を設立し「文體」を再刊。北原が赤坂一連隊に入隊。大平洋戦争勃発。
46歳
昭和18年 (1943)
北原がジャワ島から帰還。『人形師天狗屋久吉』『日露の戦聞書』を続けて文體社から刊行。
47歳
昭和19年 (1944)
スタイル社を解散し、熱海へ疎開。
48歳
昭和20年 (1945)
熱海から、さらに栃木県壬生町に疎開。終戦。
49歳
昭和21年 (1946)
北原を社長、千代を副社長としてスタイル社を再興。「スタイル」を復刊、記録的な売上を見せた。翌年に「文體」を復刊。「おはん」を連載する。銀座みゆき通りの社屋に移住。
52歳
昭和24年 (1949)
「宇野千代きもの研究所」を設立。
53歳
昭和25年 (1950)
中央区木挽町に家を新築。スタイル社の一階に「スタイルの店」を開店。「中央公論」で「おはん」を分載。
54歳
昭和26年 (1951)
宮田文子とともにヨーロッパへ旅行。「毎日新聞」に「巴里通信」を寄稿。林芙美子、継母リュウ死亡。
55歳
昭和27年 (1952)
スタイル社の脱税が明るみに。苦境に陥る。
58歳
昭和30年 (1955)
青山南町に転居する。
60歳
昭和32年 (1957)
シアトルの博覧会にきものを出品するため、アメリカに四十日間滞在。中央公論社から『おはん』を刊行。第十回野間文芸賞を受賞。
61歳
昭和33年 (1958)
第9回女流文学賞を受賞。
62歳
昭和34年 (1959)
スタイル社倒産。
63歳
昭和35年 (1960)
『女の日記』を講談社から刊行。
64歳
昭和36年 (1961)
ドナルド・キーン訳『おはん』が英米で刊行される。
67歳
昭和39年 (1964)
尾崎士郎病没。「天風会」に入会。北原武夫と離婚。
69歳
昭和41年 (1966)
継母リュウの母佐伯ミヱ、101歳で永眠。『刺す』を新潮社から刊行。
70歳
昭和42年 (1967)
親友宮田文子が急逝。那須に土地を購入する。きものの仕事をまとめ「株式会社宇野千代」を設立。「この白粉入れ」を「新潮」に発表。翌年、広津和郎没。
71歳
昭和43年 (1968)
岐阜県根尾村に「薄墨の桜」を見にいく。
75歳
昭和46年 (1971)
第28回芸術院賞を受賞。『或る一人の女の話』『幸福』を文藝春秋から、『私の文学的回想記』を中央公論社から刊行。
76歳
昭和47年 (1972)
心不全のため入院していた北原武夫が病没。
77歳
昭和48年 (1973)
郷里岩国の生家の復元が完成。勲三等瑞宝章をうける。小説「八重山の雪」の取材のため松江へ旅行。
78歳
昭和49年 (1974)
『薄墨の桜』を新潮社から、『八重山の雪』を文藝春秋から刊行。「文学界」にて中里恒子との「往復書簡」を連載。
80歳
昭和51年 (1976)
南青山から一時的に北青山に転居。 中央公論社から『宇野千代全集』の刊行始まる。
81歳
昭和52年 (1977)
東郷青児急逝。南青山の自宅が完成。翌年青山二郎没。
83歳
昭和54年 (1979)
『青山二郎の話』を中央公論社から刊行。
85歳
昭和56年 (1981)
第30回菊池寛賞を受賞。
86歳
昭和57年 (1982)
『生きて行く私』を毎日新聞社から刊行、ベストセラーとなる。
93歳
平成2年 (1990)
岩国市名誉市民となる。文化功労者として顕彰される。
95歳
平成4年 (1992)
日本橋高島屋で「宇野千代展」開催。
98歳
平成8年 (1996)
山梨県立文学館で「宇野千代の世界展」開催。 6月10日逝去。勲二等瑞宝章をうける。

平成10年 (1998)
生誕百年。三越美術館(東京・新宿)にて「生誕百年・宇野千代の世界展」を開催。以後、全国主要都市にて巡回開催。


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