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宇野千代の人生と文学
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■ 『青山二郎の話』
青山二郎は鋭敏な鑑賞眼を持つ陶器鑑定の第一人者と称されるが、装幀家としても知られており、千代の作品では『宇野千代全集』(昭52・7〜昭53・6)のほか『水西書院の娘』(昭52)『或る日記』(昭53)『残つてゐる話』(昭55)『或るとき突然』(昭56)などの装幀を手がけている。
青山の周辺には小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、中原中也、三好達治、白州正子らが蝟集し、「青山学院」の名があった。青山は大岡昇平によるとこうである。──青山学院という言葉がある・・・青山二郎を取り巻くグループについたあだ名である。生徒はもとは僕のような文学青年ばかりだったが、最近は有閑夫人や、実業家、女給、板前、女中といろいろ種類があるようで、みんなそれぞれ「ジイちゃんってなんだか頼りにならないけど、とても親切で、どうしてあげたらいいかと思っちゃうは」と大変な人気である・・・青山はどんな人間でも決して棄てない・・・どこかにいいところがない人間なんかいないのだが、ほかの悪いところをみんな我慢するのは出来ないことである(『桜と銀杏』 昭五一・八毎日新聞社)──と青山を評した。
千代と青山との出会いは昭和17年、中山義秀と真杉静枝との結婚披露宴でのことであったが、それ以来、青山は惚れた腫れたの感情抜きで千代を愛した。千代もまた『青山二郎の話』を、青山への尊敬と思慕の情を綯い交ぜて3年がかりで書き上げた。昭和55年11月に中央公論社から青山二郎のカバー・扉絵で刊行されたのだが、青山はそれを見ることなく、前年の54年3月27日、77歳で死去した。
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