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宇野千代の人生と文学

■ 『薄墨の桜』

 「根尾谷淡墨桜(ザクラ)」と呼ばれる岐阜県本巣郡根尾村の淡墨桜(彼岸桜)は、樹齢1500年余で大正11年10月、由緒ある桜の代表的巨樹として天然記念物に指定されている。この淡墨桜は蕾のうちは薄いピンク、満開になると白色に変わり、散りぎわには特異の淡い墨色を帯びてくるという。
 宇野千代を淡墨の桜に結びつけたのは評論家の小林秀雄であった。小林から薄墨桜のことを聞いた千代は、根尾村へ「駆け出した」 。このとき千代、70歳である。
 昭和34年9月の伊勢湾台風で、淡墨桜はその太い枝が折れ、葉や小枝は殆どもぎ取られて無惨な姿に変わった。千代が根尾村を訪れたのは、その後遺症がそのままの昭和42年4月11日のことであった。千代は老残の痛々しい淡墨桜に心をうたれ、感想文(『淡墨桜』)を雑誌「太陽」(昭43・4)に発表するとともに岐阜県知事に訴えた。枯死寸前の老桜を救うための募金活動も始めた。その熱意を受けての岐阜県の手当の甲斐があって淡墨桜は蘇生した。その顛末を辿りながら、大料亭の老女将高雄と薄幸の娘芳乃を軸に描き出したのが小説『薄墨の桜』(のち『淡墨の桜』と改題)である。
 『薄墨の桜』は「新潮」の昭和46年1月号に第1回が発表されたあと49年11月号まで分載され、昭和50年4月、三井永一の装幀・挿画で新潮社から刊行された。水上勉は──その文章のみずみずしさもだが、自己の主題(モチーフ)を自分流の小説構造に案出して血を流す宇野さんの新骨頂を見て息を呑んだ──と嘆賞した。




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