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宇野千代の人生と文学
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■ 北原との別れ
或る朝、北原は私に向って、「これに署名してくれないか」と言って、一枚の印刷した紙を出した。見ると、離婚届と書いたものであった。「ええ、好いわ」と私は答えた。ながい間一緒にいた私たちの間には、もう別れても宜(よ)さそうなものだ、と人の眼にも映ることは幾度もあったが、それでも私たちは別れなかった。一緒の場所で暮していた・・・その翌日、北原は荷物をまとめて、それまで一緒にいた私たちの家を出て行った・・・その北原の後姿を見送ってから、家の中へ引返し、私はひとりで少し泣いた(『弱者のように』昭55・1「新潮」)。しかしその涙は、別れるのを辛(つら)いと思って流したものではなく、「ながい間、一緒にいたなア」と言う感慨の涙であった(『続幸福を知る才能』昭58・4 海竜社)。
千代に藤村忠と大正5年から同10年(正式の離婚は大正13年4月)までの約5年間、尾崎士郎と大正11年から昭和2年までの約5年間、東郷青児と昭和5年から同9年までの約4年間の結婚生活があった。いずれも短い期間であったが、北原との生活は、後年に疎遠の時期がかなりあるものの、昭和12年(正式結婚は14年4月)から同39年9月の離婚まで約27年間に及んだのであり、「ながい間、一緒にいたなア」と言うしみじみとした感慨となったのであろう。
北原には昭和26年9月、当時銀座のバー「山」にアルバイトヘ出て一カ月ほどだった俳優座養成所の女優・久下慧子(芸名・公卿敬子)との出会いがあった。二人は北原が千代と離婚した翌40年の11月、慶応義塾大学塾長の佐藤朔夫妻の媒酌で結婚し、ホテル・ニューオオタニで盛大な披露宴を催した。慧子にとって、北原と知り合ってから14年目のことであった。
北原武夫を描いた千代の作品に『刺す』(昭41)、『私の文学的回想記』(昭47)、『雨の音』(昭49)、『生きて行く私』(昭58)などがある。北原は『宇野千代のこと』、『宇野千代という女性』、『帰郷記』、『空隙』、『別離』などで千代を描いた。
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