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宇野千代の人生と文学
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■ スタイル社の盛衰
昭和19年1月に「スタイル社」は戦時の統制で解散を余儀なくされた。千代と北原は3月、熱海に疎開する。さらに12月には太平洋戦争の激化にともない、北原の実家がある栃木県壬生に再疎開した。千代はここで北原の父・信明から聞いた話を元に、『日露の戦聞書』を書いた。北原は郷里での疎開生活を『帰郷記』にまとめている。
千代と北原は昭和20年8月15日の終戦を壬生で迎えたが、その年の11月には早くも上京し、その翌年3月には社長が北原、副社長が千代という体制で婦人雑誌「スタイル」を復刊させた。産経新聞社長の前田久吉から資金や用紙を提供するからとの申し出でスタートしたのだが、巴里帰りの高野三三男が描く女の表紙で飾られた「スタイル」は、前田の資金を必要としないほどの爆発的な売れ行きとなった。金は湯水が沸くように二人の手元に入って来た。しばらくスタイル社の全盛期が続くのである。
昭和21年10月には20万円を投じて銀座西5丁目の20坪の土地を借地し、一階が住居、二階が事務所の木造建築の建物を竣工させた。22年には、北原の父への親孝行として壬生の古い家をすっかり立て直した。23年には熱海の東山に別荘を持った。そして更に25年4月には歌舞伎座近くの中央区木挽町に、坪当たり25万円の当時日本中にそれほど金をかけたものはないと言われたほどの豪邸を新築して移り住んだのである。だが、衰亡の時は忍び寄っていた。
昭和27年に入ると、大手出版社からの「スタイル」類似の豪華雑誌が相次いで発行されたため、次第に売り上げ不振となり、それに同業者の投書による脱税摘発が追い討ちをかけて経営を揺るがした。
国税庁から、不意に査察に来た・・・取り調べは一カ月あまりかかった・・・三カ月の後に、国税庁の査定があった。追徴金まで加えると、億に近い金額であった。ひょっとしたら、社長である北原は、或る罪名によって、逮捕されるかも知れないと言われた(『生きて行く私』)──。振り出した手形は暴力団の手に渡り、返済出来なければ殺すと脅されるような「奈落の底」も見たのだった。千代が平林たい子を訪ね、20万円を貸して貰ったのもこの頃のことである。
昭和32年5月、スタイル社は会社更生法の適用を受けて再発足するが、34年の4月に不渡り手形を出して完全に倒産した。その末期にはスタイル社としては銀行からの融資の道は完全に閉ざされ、作家・北原武夫個人としての借り入れで凌いだのだが、その負債は8千数百万円にも上った。銀座の土地建物、熱海の別荘、木挽町の豪邸、新築間もない栃木の北原の父の住居が相次いで人手に渡った。千代は「きもの」の売り上げで、北原は中間小説などの文筆収入で返済に奔走した。返済が完了したのは昭和39年春のことであった。その年の9月、千代と北原は離婚した。
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