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宇野千代の人生と文学





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宇野千代の人生と文学

■ 北原武夫との出会い

 宇野千代と北原武夫は昭和14年4月1日、画家の藤田嗣治と作家の吉屋信子の媒酌で結婚し、帝国ホテルで盛大な披露宴を催した。このとき千代42歳、北原32歳であった。招待状を受け取った人の中には「エイプリル・フールじゃないのか」「どうせ直ぐ別れるよ」などと言うものもおり、騒がしかった。
 北原武夫は本名健男。父信明は日露戦争に参戦した一等軍医で、千代は後年、彼の話をもとに『日露の戦聞書』を書いている。北原は慶応義塾大学仏文科から国文科に転科して昭和7年3月に卒業後、「都新聞」(現・東京新聞)に入社し横浜支局詰めとなったのだが、東京へ転勤した後の昭和11年、取材で千代を訪ねた。千代は──そのとき始めて会つた北原に、私が魂を奪はれるほど気をとられて、それから後は毎日毎日、北原に会ふために『都新聞』の玄関まで行つた(『しあはせな話』)──のだった。
 千代は昭和11年6月に雑誌「スタイル」を創刊しているが、その翌12年の6月、千代の熱心な勧めで北原は作家生活に入る決意を固め、都新聞社を退社した。北原の妻美保子はこの年の3月、結核が悪化して死去した。腰椎カリエスで歩行が不自由な娘のミキが残されたのだが、彼女も千代と北原が結婚した14年の7月、カリエスから結核性脳膜炎を再発して死んだ。新聞社を退職した北原はファッション雑誌「スタイル」の編集に携わることになり、順調に売り上げを伸ばした。
 北原は昭和16年11月中旬、陸軍報道班員として徴用され、翌17年1月内地を出発してジャワ島に敵前上陸した。このとき大宅壮一、武田麟太郎らが一緒だった。千代は遠く戦地に在る北原への思いを『妻の手紙』(昭17・10 甲鳥書林)に託した。のちの名作『おはん』は二人の女の間をうろうろする甲斐性なしの男の語りで展開するのだが、『妻の手紙』の──ほんとうに、こういう女のとるにも足らぬ心持ちなぞ、誰がとがめるものがございましょう──の「口説(くど)き」の調子は『おはん』の文体と似ている。
 千代はこの年の4月24日徳島に渡って吉岡久吉に取材し、その聞き書きによる『人形師天狗屋久吉』(昭18・二文體社)を著すなど、およそ戦争とは無関係の作品に力を注いでいたのであった。




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