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宇野千代の人生と文学
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■ 湯ケ島・梶井基次郎
昭和2年(1927)2月、尾崎士郎は川端康成の招きで始めて伊豆湯ケ島を訪れた。千代もやがて湯ケ島を訪れるのだが、尾崎夫妻が逗留したのは川端と同じ湯本館である。
その動静については「時事新報」、「都新聞」の消息欄に「5月22日宇野千代、広津和郎夫人と湯ケ島へ」「7月30日宇野千代氏、萩原朔太郎氏湯ケ島へ」「9月3日宇野千代今秋一ぱい湯ケ島に」「10月5日宇野千代帰京」などとある。
宇野千代は湯ケ島で梶井基次郎を識った。東京大学在学中の梶井は昭和2年1月1日、湯ケ島温泉の湯川館に落ち着いた。前日の大正15年・昭和元年の大晦日、療養のため同地の落合楼に投宿したのだが歓迎されず、当時 湯本館に逗留していた川端康成の口利きで移って滞在中だった。
夏の初めであった。湯ケ島の瀬古の滝へ行く路上で、川端さんに紹介された。一見、無骨そうな若い男、と言う印象であったが、いかつい骨格の割りに顔色が悪かったり、無口のこわい人のようでいて、笑うと眼が糸のように細くなる感じが、とても柔和な印象であったり、何だか矛盾した感じを受けた(『梶井さんの思い出』 昭34・5月「梶井基次郎全集第二巻月報」筑摩書房)──瀬古の滝は「世古の滝」が正しい。
この頃、梶井はまだ、有力な雑誌に作品を発表することはなかったが、或る特定の同人雑誌などに発表して作品は高く評価され、梶井基次郎という名前は、広く喧伝されていた(『生きて行く私』)
千代は湯ケ島での梶井についてこのように書いている。このあと、千代と梶井の親交が急速に深まり、二人の“噂”が馬込村に広まるのである。
私は梶井の話も、その書くものも好きなのであった。思わず、一緒に話し込み、夜の更けるのも忘れることがあったが、それは、のちに人々の噂し合ったように、私が梶井に対して、或る特別の関心を持ったからではなかった。「宇野千代はおかしい」。そう言う噂話が、馬込の人たちの間に流布されている、と言うことを、私は夢にも知らなかった(『生きて行く私』)
千代と梶井との関係を、梶井の親友であった中谷孝雄は──梶井の生涯に於けるそれが唯一度の厳粛な恋愛だったと信じて疑はない(『梶井基次郎』昭44・9月・筑摩書房)──と言う。
このような状況の中で、千代と尾崎士郎との間には隙間風が吹いていたのであった。
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