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宇野千代の人生と文学
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■ 文壇への登場
大正9年(1920)7月6日、藤村忠は千代との二人三脚によって、東京帝国大学法学部政治学科を無事に卒業した。当時、大学の新学年はアメリカ同様9月に始まり、卒業式は7月に行われていた。東大にはまだ経済学部はなく、忠は政治学科の中で西欧金融経済制度史を専攻した・・・忠は卒業と同時に、札幌に本社のある北海道拓殖銀行に就職した(神埜努著『宇野千代の札幌時代』平12・8共同文化社)──千代は忠に遅れること約二カ月後の9月上旬に北海道へ向かった。
札幌での《藤村千代》は、忠との平穏な日々を送った。決まった月給日に相当の金額の月給がきちんと貰えた。だが、じっとしていられない千代の血が騒ぐ。札幌の「北海タイムス」や同人誌などに習作を発表していた千代は、時事新報の懸賞短篇小説に応募し、大正10年1月21日に発表された結果は千代の『脂粉の顔』が一等に入選、尾崎士郎が二等、横光利一ら三名が選外であった。そのあと、燕楽軒での面識を頼りに臆面もなく滝田樗陰に送った『墓を発く』が「中央公論」の大正11年5月号に《藤村千代》の名で掲載されたのである。
当時、数多くの同人雑誌で苦労していた若い作家にとって、「中央公論」は憧れの舞台であった。「中央公論」に作品が載ったということは、新人として登録されたことを意味しており、その後凡作を続けて書かないかぎり、作家としての将来が約束されたも同様であったという。千代は、作家としての檜舞台に上ったのである。
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