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宇野千代の人生と文学
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■ 京都から東京へ
千代と忠の関係はやがて家族ぐるみのものとなり、間もなく忠の母に促されて京都の彼の許へ赴く。この母は、千代の継母リュウの姉カツである。
知恩院の中の寺の六畳一間での生活では、忠の父・武吉が裁判所を退職したため送金も途絶えがちであったことから、千代は質屋通いや中国人家庭での家事手伝いなどで二人の生活を支えることに忙しく、京都の名所旧跡も知らずに過ぎた。
大正6年(1917)8月、忠は第三高等学校を卒業して東京帝国大学法学部に進み、千代を伴って東京へ出た。その頃は、岩国からの送金は全く当てにならず、忠は大学は籍だけで殆ど出席せずに、或る役所の雇員になって働いていた。
千代も雑誌社の事務員や家庭教師など、いろいろな働き口を探して生活を支えることになる。その一つに本郷の東京大学近くにあった西洋料理店「燕楽軒」での給仕女がある。
僅か18日間の勤めだったが、ここで千代は今東光や久米正雄、芥川龍之介などを識る。なによりも「中央公論」編集長の滝田樗陰との運命的な出会いがあった。
のちに千代の小説『墓を発く』を採り上げ、文壇への足がかりを作ったのが滝田樗陰である。滝田が燕楽軒で摂る昼食のテーブルは千代の受け持ちで、彼は帰り際に何時も五十銭銀貨をチップとして置いた。千代は質草を受け出せる金額が溜まった18日間で店をやめたのだった。
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