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宇野千代の人生と文学
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■ 父・俊次の死
千代の父俊次は、大正2年(1913)2月8日に57歳で病没した。千代16歳、女学校3年の時であった。
俊次は、千代自ら「バルザックかドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人乃至狂人だった」、「馬を何頭も飼って競馬に出し、博打もし、あらゆる道楽をし、放蕩を極めた」、「対話は父の命令と私の答えだけにかぎられた」、「私たち子供に対しては峻厳そのもの、スパルタ式の教育を施してはばからなかった」、「草履は腐るが足は腐らんと言って、雪の日に、学校へ行くのに裸足で行かせた」と語るような特異な父親であった。
だが、小学校時代の学業を全甲で通し毎年の春に旧藩主(吉川家)から褒美を貰った千代を、大明小路の料理屋、鍛冶屋町の芸者屋、道具屋、株式相場の店などへ「今日はこいつが、学校へ呼ばれての」と褒美の品を手に誇らしげに連れ歩く一面もあったのである。
厳格な父の死で子供たちはもちろんのこと、千代の継母・リュウ(当時30歳)も解放感を得た。父の存命中は、木偶人形を操る「でく廻し」や「猿芝居」が家の近くに来ても見に行けない、それこそ家の中で息をひそめているような環境が一変した。近所の人たちは父の死に悔みを述べたあと「じゃが、これからはほんにお気楽になれやすですよ。のう」と、ひそかに喜んでくれた。
千代は母に連れられて、沖の町の木賃宿の座敷で開かれる浮かれ節(浪花節)を聞きに行くようにもなった。千代は──生まれて始めて聞く浮かれ節は芸術というものに対する、もっとも初歩的な開眼となった。(『生きて行く私』)──と言う。
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