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岩国文学散歩

国木田独歩(くにきだ・どっぽ 本名・哲夫)

 独歩は明治9年、父専八の山口裁判所勤務に伴い、東京から山口にやってきた。岩国では錦見尋常小学校に学んでいる。18年間、専八が県下の裁判所を転勤するとともに各地に多くの足跡を残した。それは後年の作品に影響を与えることになる。錦川と錦帯橋のまち、岩国では幼少期を回想した『画の悲しみ』『泣き笑い』や主人公が夜の錦川を下り、やがて自然のふところに帰っていくという『河霧』の佳作がある。
 青春期をすごした田布施、柳井地方では、独歩文学揺籃の地というべく、『置土産』『帰去来』『富岡先生』『少年の悲哀』『酒中日記』等の主要な作品が生まれている。とくに『少年の悲哀』は傑作である。
 今日、独歩の描いた風景は失われつつあるが、彼の作品は今なおみずみずしく私たちに語り掛けてくる。
 その他の著作に『武蔵野』、『牛肉と馬鈴薯』、『運命論者』、『空知川の岸辺』 などがある。
 吉香公園の一角に『欺かざるの記』の一節「岩國の時代を回顧すれば/恍として夢の心地す」を刻んだ《文学碑》がある。



河上徹太郎(かわかみ・てつたろう)

 評論家。明治35年1月、邦彦、ワカ子の長男として長崎県長崎市に生まれた。父は岩国・錦見の生まれで家は代々岩国藩士であったが、東京帝国大学を卒業後、日本郵船に入社し、当時は長崎に勤務していたのである。
 愛郷心の強かった父親は、徹太郎に故郷への馴染みをつけさせようと小学校から大学に至る夏休みを全部故郷の海辺で過ごさせた。
 徹太郎は、父の任地の関係で神戸を経て、東京府立一中、一高、東京帝国大学のコースを歩んだ。もともと文学青年ではなかった彼はスポーツや音楽に親しみ、このことがのちの評論活動の素地となった。
 帝大時代に一級下だった小林秀雄をはじめ、中原中也、大岡昇平など、俊才らと交流を深め、さらにヴェルレーヌやヴァレリー等の出会いなどによる西洋文学の接点は、彼の批評精神を大きなものにしていった。
 岩国への思いは強く、岩国の風物を綴った多くのエッセイがある。音楽評論でも知られる。
 主な著書に 私の詩と真実』(読売文学賞)、『日本のアウトサイダー』(新潮社文学賞)、『吉田松陰―武と儒による人間像』(野間文芸賞)、『憂愁日記』(日本文学大賞)などがある。昭和36年、「多年にわたる評論家としての業績」によって芸術院賞を受賞、38年、芸術院会員に推され、47年には文化功労者に選出された。岩国市名誉市民。岩国市横山の土手に《記念碑》がある。
 昭和52年の暮れ、祖父逸の師・玉乃世履の取材で岩国の山腹にある栄福寺を訪れたとき、「山門や/梯子はずして/吊し柿」という句を詠んだ。



元島英三(もとじま・えいぞう)

 児童文学作家。明治32年(1899)2月23日、東京・本郷で生まれた。初め大衆文学を志し、大衆誌の最高峰「文芸倶楽部」に連載したほか、当時多くの大衆雑誌に執筆した。のち児童文学に転向して小学館、講談社、博文館、実業之日本社から発刊される少年少女雑誌に執筆した。大正11年4月の「令女界」創刊にも携わり編集・執筆した。
 終戦後、夫人の郷里である岩国に移住し、昭和25年12月、岩国文化センター文芸部会会長として機関誌『岩国文芸』(のち『火山群』)、総合雑誌『二十一世紀』(昭44・7〜)を創刊するなど文芸活動に力を注ぎ、昭和44年には「岩国地方文化人連盟」を発足させ、以後15年間にわたり会長を務めた。また、福祉・更生保護事業、社会教育事業などに大きく貢献した。著書に『小学国史物語』、『おはなしの泉』、『少年西遊記』などがある。岩国市門前の大歳神社境内に有志による《文化碑》が建てられ、横山の菖蒲池には記念樹「元島桜」がある。



伊藤正一(いとう・しょういち)

 生粋の岩国人であり、旧制の岩国中学校を卒業後、外務省管轄の専門学校東亜同文書院に進学した。昭和22年、岩国市議会議員に当選したが半期で辞職、市役所に入り審議室長、総務課長、財政課長を経て交通局長という市行政の中枢部を歩み、42年には助役に就任し2期8年間勤めた。その間、昭26年から岩国文学協会会長に就任し、文芸誌『火山群』の編集・発行人として文芸活動にも意を注いだ。
 郷土の生んだ女流文学者宇野千代の人と文学に傾倒し、昭和52年11月に「宇野千代後援会」を発足させ、初代会長に就任した。文学者としての著作も多く、代表的なものに『錦帯橋由来記』、『蛇足の人生』、『錦帯橋物語』、『岩国玖珂歴史物語』、『若き日の毛利元就』などがある。平成2年2月、その業績を称える《文学碑》が、岩国文学協会により錦帯橋畔の横山に建立された。



江先 光(えさき・ひかる)

 大正6年12月、岩国生まれ。昭和7年3月、岩国尋常高等小学校を卒業。昭和14年、日中戦争に参戦し、続く太平洋戦争で中国を転戦したが、終戦とともにソ連軍に捕らえられ、ウラジォストック、ハバロフスク等での長い抑留生活で辛酸を味わった。昭和31年7月、引揚げ船で舞鶴に上陸し、故郷の岩国に帰り着いた。
 平成2年から8年にかけて岩国文学協会会長を務め、文芸誌「火山群」を通じて文学活動を続けた。85歳の現在も事業に精励する傍ら、エッセイ等を執筆するほか、趣味の水墨画を美術展等に出品している。著作に『戦鬼』(昭53)、『銃剣と人形』(昭56)、『慰安婦秀雲』(昭57)、『千人の戦鬼』(昭59)、『牙の神兵』(昭61)、『一歩二歩三歩一生懸命』(平6)、『絵草紙日中戦争』(平11)などがある。



鑓田研一(やりた・けんいち 本名・徳座研一)

 評論家・小説家。明治25年8月、岩国の今津で生まれた。神戸中央神学校卒業。大正3、4年ごろ、菊池寛一、宇野千代らと回覧雑誌「海鳥」を発行した。トルストイに共鳴して『トルストイの生活と芸術』(大7)を翻訳出版した。戦前、農民文学会機関誌「農民」に多く執筆したが、戦後も日本農民文学会の結成に参画している。
 主な著書に『内村鑑三』、『新島襄』、『賀川豊彦』、『石川啄木』、『島崎藤村』、『聖母マリア』、『徳富蘆花』、『樋口一葉』などがあり、優れた評伝を世に送った。満州建国の事情を抉った『満州建国記』三部作「奉天城」「王道の道」「新京」は力作である。



沖井千代子(おきい・ちよこ 本姓・高橋)

 児童文学作家。昭和6年(1931)、医師沖井礒吉の三女として愛媛県今治市に生まれた。礒吉は昭和10年に岩国市元町で外科病院を開業した。昭和22年に県立岩国高等女学校を卒業し、県立広島女子専門学校(のちの広島女子大学)国文科に進んだ。芥川賞作家の大庭みな子は岩国高女での同級である。
 昭和31年、「婦人朝日」の特別懸賞童話の入選をきっかけに童話を書き始め、小説家・児童文学作家の坪田譲治に師事した。著書に「読書感想文コンクール課題図書」に選ばれた『もえるイロイロ島』(昭43)、『歌よ川をわたれ』(昭55)、『赤い円ばんあんパン号』(平4)など多くの作品がある。 昭和44年度の山口県芸術文化振興奨励賞を受けたほか、『空行く舟』(平13・12小峰書店刊)で第42回日本児童文学者協会賞及び第32回赤い鳥文学賞を受賞した。



河上 肇(かわかみ・はじめ)

 『資本論』の翻訳などで知られる経済学者であるが、『自叙伝』、『貧乏物語』などは文学的にも高く評価され、詩集『旅人』、詩歌集『ふるさと』もある。
 明治12年10月、山口県玖珂郡岩国町に父河上忠(すなお)、母・田鶴(たず)の長男として生まれた。山口高を経て東大政治学科を卒業。京大助教授時代の大正2年ヨーロッパに留学、帰朝後、教授となった。
 昭和8年、治安維持法により検挙され、懲役8年の判決を受けて入獄した。獄中から故郷の母に宛てた手紙には、岩国での少年時代の思い出が数多く綴られている。出獄後は閉戸閑人、千山万水楼主人の雅号で漢詩、和歌、篆刻(てんこく)などに親しむ日々を過ごした。『河上肇全集』(岩波書店刊)がある。岩国市横山の土手に《歌碑》がある。



高橋金窗(たかはし・きんそう 本名・政夫)

 昭和45年3月、岩国市俳句協会が結成され初代の会長に選ばれた。当時俳句雑誌「同人」を中心とする同人派の会長も務めていた。
 句集『五軒谷』、『土穂石』などがある。五軒谷は岩国当時の居住地名、土穂は後年住んだ柳井の地名。岩国市の吉香公園(昭31)、通津公民館(昭38)のほか、山口市の香山公園露山堂(昭50)に《句碑》が建てられている。



玉田太郎(たまだ・たろう 俳号・空々子)

 医師。現在岩国俳句協会顧問、岩国同人俳句会会長を務める。昭和22年から句作を続け、92歳の現在も指導的立場から岩国俳壇に貢献している。第一句集『故郷』(平2)に続いて平成14年秋、第二句集『冬薔薇(ふゆそうび)』(平14)を刊行した。20年間理事長を務めた、玖珂郡美和町の特別養護老人ホームに《句碑》が建立されている。



大庭みな子(おおば・みなこ 旧姓・椎名、 本名・美奈子)

 昭和5年東京生まれ。海軍軍医の父の転勤で転校が続いたが、昭和22年岩国高等女学校を卒業した。著作に『三匹の蟹』(群像新人賞・芥川賞)、『がらくた博物館』(女流文学賞)、『寂兮寥兮(かたちもなく)』(谷崎潤一郎賞)、『啼く鳥の』(野間文芸賞)などがある。



新庄嘉章(しんじょう・よしあきら)

 フランス文学者。フランス文学者会会長。早稲田大学名誉教授。大正13年、県立岩国中学校を4年終了。アンドレ・ジードの『狭き門』、『モーパッサン全集』、大デュマの『モンテクリスト伯』、小デュマの『椿姫』 その他多数の翻訳がある。



杉本春生(すぎもと・はるお)

 日本文芸家協会、近代日本文学会の会員。地方文化の会・岩国の第二代会長。「H氏賞」の選者。著作に評論集『叙情の周辺』(ユリイカ)、『現代史の方法』(思潮社)、『叙情の思想』(弥生書房)、『全集』などがある。
 昭和34年に山口県芸術文化振興奨励賞を受賞した。吉香公園内には記念桜が植樹されている。品種は紅染井。そばの碑には杉本の「風には 受胎の匂いがある」の言葉が刻まれている。



吉川英治(よしかわ・えいじ)

 小説家。明治25年神奈川県生まれ。代表作『宮本武蔵』を書くにあたって岩国に取材に訪れた。佐々木小次郎を岩国藩士と設定、錦帯橋下の巌流ゆかりの柳で「つばめ返し」の技を修得したとしている。吉香公園内の一角に小次郎の銅像が建立されている。



目加田誠(めかだ・まこと)

 中国文学者。明治37年岩国市生まれ。『詩経』の研究で知られる。九州大学名誉教授。早稲田大学教授として重きを為す。「平成」の年号制定の際は諮問委員の一人として貢献した。主な著書に『風雅集』など。横山の吉香公園内にある目家田家住宅は中級武家屋敷の数少ない遺構であり、昭和49年、国の重要文化財に指定された。



田中穂積(たなか・ほづみ)

 海軍軍楽隊長。安政2年生まれ。「勇敢なる水兵」「黄海海戦」などの作曲はよく知られるが、特に1900年ごろ作曲された「美しき天然」は不朽の名曲として有名である。作詞は武島羽衣。メロディは、サーカスのジンタとして今に残る。横山千石原の出生地に生誕碑、吉香公園内に胸像と歌曲碑が建っている。




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