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宇野千代の人生と文学

■ 史跡「鞍掛合戦千人塚の碑」

 『残っている話』(昭55・1 集英社)は、千代が自らのルーツを玖珂郡の周東町、玖珂町に探った作品である。──私の家、宇野の家の祖先は、玖珂の鞍掛山の城主、杉隆泰の家老である。名前は、宇野筑後守正常と言う。いまから四百何十年か前、戦国時代の始まろうと言う頃のことであるが、主君の杉隆泰が讒訴(ざんそ)のため、毛利、吉川の軍勢にとり囲まれ、二万の大軍に、味方の兵力は三千、衆寡敵せず、落城した。その際に、藩主とともに切腹した(『残っている話』)──。このときの落城で切腹した藩士は、1370人といわれ、古戦場の鞍掛山の麓に「千人塚」が建てられている。
 千代は昭和63年3月5日に建てられた黒御影石の慰霊碑に、玖珂ライオンズクラブの委嘱で「史跡千人塚に想ふ」の碑文を書いた。碑に刻まれた自筆の書は──史伝によれば、戦国大名安芸の毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を破り、勢ひに乗じて周防長門へ駒を進めた。その最初の戦が玖珂盆地における鞍掛合戦であつた。大内氏の三家老の一人、この地方を治めてゐた治部大輔杉隆泰は、千三百余名の部下とともに鞍掛城に立籠り、毛利軍七千を迎え撃つたが多勢に無勢、砦を枕に壮烈な討死をとげたといふ。弘治元年(1555)11月14日のことであつた。血縁地縁につながる者の一人として、ここ千人塚に眠る将兵の悲憤に思ひを致し、心からその霊を慰めたい──である。




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