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生家のご案内

生家のある川西を歩く

 川西は、 錦帯橋下流の臥龍橋を西側に渡ったところに位置するまち。 バイパスに沿うように旧街道があり、 その通りに面して明治初期の趣を残す宇野千代の生家がある。
 明治三十年 (一八九七) 十一月二十八日、 千代はこの家 (山口県玖珂郡横山村三二九番屋敷、 現岩国市川西町二丁目九番三五号) で生まれた。
 大正四年、 十八歳のとき、 同僚との恋愛を理由に教職を追われ、 故郷から旅立った千代だが、 その原点にはいつも故郷の岩国があった。
 「この血を、 この体を、 この魂をつくってくれた故郷こそ私自身のすべて」 と語る千代の作品には、 その故郷が見え隠れする。
 生家のある通りには、 千代の菩提寺である教蓮寺や、 千代も願掛けしただろう古びた社などがあり、 生家への道はそれらを拝しながら、 ゆっくり歩くにはちょうどいい距離と道幅だ。 やがて、 角を回ったところで板塀に囲われた千代の家が見えてくると、 不思議な懐かしさがこみ上げてくる。


千代が復元

 紅殻格子と白い漆喰の壁を備えた平屋の家屋は、 千代が喜寿を迎えた昭和四十九年に復元修理が完成した。 もはや朽ち果てようとしていたところを千代が駆けつけ、 精力を上げて修復したのだった。 当時の大工さんは、今も折を見ては細かい修繕を続けている。
 紅殻を塗った柱や桟、 格子は渋みのある落ち着いた色合いを得て、 小粋なものさえ感じさせる。 この家は千代の空気を静かに発している。 「宇野千代」 という千代独特の自筆表札 が懸かる玄関の格子戸をがらりと開けると、 その空気ははっと息を呑むような勢いでからだを包み込むのだ。
 きれいに掃き目のついた、 玄関の土間には千代の草履が主を待つように揃えてあった。 薄紫色の鼻緒が眼に鮮やかだ。 土間から見上げた位置に神棚があった。 ささげられた瑞々しい榊が、 この家の確かな生活感を伝える。




千代の文机

 玄関から奥に進むと、掘り炬燵の間がある。そこには時代を感じさせる掛け時計があり、時計の間とも呼ばれている。 小さな古時計は、いましっかりと二十一世紀の時を刻んでいるが、これまで、どんな情景、どんな時代を見つめてきたのだろうか。
 家は玄関を中心に左右に分かれる。 右手は台所や風呂(昔のままの五右衛門風呂)に続く廊下。左手には客間、仏間、寝室・・・。まず仏間に向かい、仏壇に手を合わせる。位牌や千代の写真があり、穏やかな表情の千代が優しくほほえみかけてくれる。
 庭に面した仏間には、宇野文学ファンなら息をのむようなものがある。文机だ。原稿用紙とそれを押さえる文鎮代わりの刀の鍔、その脇に長短二、三十本の鉛筆がある。いずれも6Bという軟らかい芯の鉛筆はきれいに削られ、いつでも執筆できる状態だ。机の前にはざぶとん。この机に向かって名作をつむぎだした千代の筆運びを思う。
 縁側に座る。目の前に広がるのは、およそ五十本のもみじが植えられた、小さな森のような庭。春の新鮮な緑から晩秋の燃え盛るような赤まで、季節ごとに色が移ろい行くさまは見事というほかない。ここでしばしたたずむのは、まったく幸福なひとときである。こころが安らぎ、肩の重みがすうと消えるのだ。




庭の仏頭

 晩年、千代が里帰りした折、知人やファンが多数、生家に駆け付けた。すると、この縁側に座っていた千代は「皆さんに歌を聞かせてあげましょう」と、いきなり童謡を歌いだしたことがある。高くて、よく通る歌声だった。千代のもてなしの気持ちを感じた。あるいは、千代は庭を眺めつつ、幼女のころを思い出していたのかもしれない。
 庭の左手にある築山には仏頭が鎮座している。千代が骨董屋から買ってきて据えたものだ。骨董屋は売り惜しみをしたそうだ。なるほど立派なもので、高貴な顔立ちをしている。「先生のお顔とよう似ていますね」と言われた千代はうれしくなったという。千代は、この仏頭の前に石のうすを置いた。うすは清浄な水をたたえ、手水鉢となった。
 庭の地表は、深い緑の杉苔にこんもりと覆われている。庭には雑草、塵一つ無く、生家を守る会の皆さんによる、渾身の手入れがうかがえる。
 庭には、瓦を縦にして地面に埋めて作った小さな道がある。千代は、この瓦の道を、わら草履をはいて毎日行き来したのだという。その小道の途中、地元の千代ファンが、架け替えの錦帯橋の古い端材を手に入れてきて作ったベンチが置かれた。周囲にしっくりとなじみ、まるで昔からそこにあるようだ。



薄墨の桜

 千代は八十歳のとき、岐阜県根尾村からもらってきた薄墨(淡墨)の桜の苗木二本を、この生家の庭に植えた。苗は見上げる大木に育ち、春になると、錦帯橋の染井吉野よりも少し早く、淡い桃色の花を咲かせる。花は散り際に淡い墨色となり、本家の根尾村の薄墨桜の見事さを思わせる。
 宇野文学ファンにとっては、生家は聖地にも等しい。休日ともなると、庭先から、そっといとおしむように生家を眺める人たちがいる。
 幸福なことに、生家はいま、一般開放されるようになった。ファンは高鳴る胸を押さえるようにして生家の戸を叩く。ここを訪ねると、なんだか元気がもらえるからだ。
 「桜も日本一、 錦帯橋も日本一、 こんな日本一の故郷を持っている幸せ者が二人とあるだろうか。 私はとても故郷に感謝している」と千代は晩年語った。
 生家では、その幸福に触れ、浸ることができる。



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